発達障害者がこどもを産みたいと思うのは、そんなにいけないことですか?
今日はツイッターのTL上でこの話題で持ちきりでした。
障害児の出産:「茨城では減らせるように」教育委員が発言 - 毎日新聞 https://t.co/MF28lJUWTT
「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」
「意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」
「茨城県では減らしていける方向になったらいい」
引用:朝日新聞
「命の大切さと社会の中のバランス。一概に言えない。世話する家族が大変なので、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」
自分のフォロワーさんには、発達障害の当事者さん以外に、発達障害のお子さんを持つお母さんたちもいらっしゃるので、ほとんどの方の意見は、怒りや憤り… かと思いきや、当事者の中には、発言の仕方には問題があるとしながらも「まあ、正論だよね」という意見の方も少数ですがいるんですよね…。
この教育委員の発言は、特別支援学校を視察しての感想だそうなので、見てきたこどもたちの中には、重度の身体障害、知的障害を持っているこどもたちの方が多かっただろうなと予想できます。なので、ADHDなどの発達障害は、これとは関係ないじゃんと思われるかもしれませんが、自分のこの状態(ADHD)を世間が「障害」という括りで囲う以上、自分の中では全くの無関係とは思えないのです。この騒動に触発されて、常日頃思っている、あまりオープンにできない考えを今日は記録しておきたいと思います。これは、賛同者を集めたい主張でも、なんでもないので、ただのADHD当事者個人のぼやきだと思ってください。
ADHDは、その発生原因が正確には不明とされながらも、親がADHDの場合、そのこどもがADHDである確率は、定型発達の親の場合より、高いとされています。その確率は20%だとか50%だとか、記事により異なっているのでなんとも言えませんが、少なくとも、確率としては気にせず済むほど低いとは言い難いでしょう。もちろん、定型発達の両親の間にもADHDのこどもは産まれることはあるので、気にすべきでないとしている書籍が多いです。そりゃ、そうですよね、公に、「発達障害者はこどもを産むな」という医者や物書きはいないでしょう。ちなみに、自分の母親もおそらくADHDなので、遺伝するというのは嫌が応にも意識します。
発達障害者のコミュニティでは、「遺伝する可能性がある以上、発達障害者はこどもを産むべきではない」という意見って、決して少なくはないんですよね…。2chなどでは、(どこまで鵜呑みにするかという問題はあれど)「自分は、産んだ親のことを恨んでいる」「劣勢遺伝子は残すべきでない」という意見もあるし、日頃交流があるツイッター上のフォロワーさんでも、「結婚はしたいけど、こどもは産まない」「発達障害者に子育てなんてできるわけない」「この世に不幸なこどもを増やすだけ」という意見があり、以前から、見るたびにとても、モヤっとしてやりきれない気分になります。
なぜなら、私の昔からの願いが「自分のこどもを産みたい、お母さんになりたい」だったからです。
小さな頃から、将来の夢は保育士さんというほど、こどもが大好きでした。実際に、保育士の免許も持っています。今の仕事もジャンルとしては、こどもや教育に関わる仕事です。自分のADHDが発覚した時、調べたいろいろな情報の中で、一番ショックだったのが、「ADHDは遺伝するのでこどもを産むべきじゃない」という意見でした。
その後に、もっといろいろ情報をつけて、「遺伝する可能性はあるけど、遺伝しない可能性だってある」「育てる環境(早期の療育など)によってその生きづらさは変えることができる」ことなどが分かってきました。
産むべきじゃないという人の意見は、
- 自分がこんなに苦しんでいるんだから、同じ苦しみを味あわせたくない
- 自分の親には恨みしかない
- 育てる能力がない、自分の生活だってままならないのに
- こどもを産まなくたって生きていけるし、そんなに欲しいなら養子をとればいい
私の感覚的なところだと、特に上2つの意見は、高校生や大学生などの若い子、そして男性に多い気がします。つまり、こどもを産むということをそこまでリアリティを持って考えてないんじゃないかと。自分もADHDが発覚した後少しの期間に親を恨む気持ちが確かに少しはあった。でも、現在は、全くなく、逆に「お母さんもこんな生きづらさを抱えて、大変だっただろうな」という共感を持つことができ、前より心の距離が近づいた気がしています。日々の失敗に対して凹むことは多いけど、自分のことを不幸だとは思わないし、ADHDという発達障害を不幸だとは思っていないです。現在の環境が合わなくて苦しんでいる人のことを、大変そうだな、なんとか改善できるといいなとは思うけど。下2つの意見は、日頃同じような生活しづらさを慰め合っているフォロワーさんでも持っている意見で、こういう思いは確かに分かる。分かるけど…。
自分が、こどもを欲しいと思うのは、ただのワガママなんだろうか。何度も考えました。周りがベビーラッシュだから?親や親戚の期待があるから?よく考えたけど、そういうのを全部越えた、「いきものとしての本能」の部分で私はこどもが欲しいと思っているんだと思います。生きていて、30歳前後を迎えた時に、自然とこどもが欲しいなと思う、これって人間としてのごく自然な行動なんじゃないでしょうか?社会的な人間としてというより、いきものの本能として子孫を残すことを求めている。
もちろん、人間が本能だけで行動しては社会が崩壊するので、ルールやモラルがあるので、そこを間違えるつもりはないけど。でも「発達障害の当事者」として生きてみると、こういう本能的な欲求まで「お前にはそんな権利ない」と言われることがたまにあり、その度に深く傷つきます。
本当にこどものことを思うなら産むべきじゃない?でも、私には、発達障害のお子さんを持つお父さん、お母さんたちの生活や、そのこどもが不幸には思えないのです。確かに、定型発達の子より手がかかることは多いかもしれない、けど、その分多くの悩みや問題を本気で向き合って乗り越えて密度の濃い親子の時間を過ごしているように見えます。そして「うちの子は可愛い」「本当に良い子」と堂々と言える人が周囲には多いんです。発達障害児は手がかかる、定型発達児は手がかからないなんて、一概には言えないと思うし、子育てなんて、交換して比較できるものじゃないんだから、それを大変だと思う人はそうなんだろうし、大変だけど、その中に幸せを感じられる人は幸せなんじゃないかと思う。
少なくとも、自分は親にとって手のかかる子だった覚えがない。むしろ、我がままも甘えもなく、手のかからない子だったと思う。こどもながらに、良い子にしていたほうが、親に迷惑がかからない、ラクをさせてあげられると思っていたから。でも、それで、自分たち親子が、幸せいっぱいだったかというとそうじゃないし。だから、障害と幸せは関係ないと思うのです。少なくとも自分の経験上は。もっと手のかかる子だったら、親は側にいてくれたのかな。
自分がこどもを産みたいことの理由の一部には、満たされなかったこども時代を、自分がこどもを持つことで解消したいという思いが全くないと言えば嘘になります。自分が親の側になれば、いっぱい抱きしめて、たくさん一緒に過ごして、その成長をたくさん褒めて、叱って、悩んで、過ごしていきたい。これは全部、自分のワガママで、こどもの為にはならないんでしょうか。街中で、赤ちゃんを見かけるたびに、あの小さな温もりをこの腕に抱ける日が来たら、どんなに幸せかと想像します。その度に、でも…と頭の中でストップがかかり、苦しくなります。
毎日の生活で苦しんでいるフォロワーさんの姿と将来の子の姿が重なり、「どうして遺伝するかもと分かっていたのに産んだの?」と責められた時に自分はなんて答えるの?責任のない人は「こどもに障害があるかどうかは、生まれてみなきゃわからない賭けだから」というけど。というか、こういう考え自体、自分の中で、まだ少なからず、「発達障害のある人生」と「発達障害のない人生」選べるもんなら「ない」方を選びたかったと思ってしまっている証拠なのかな…。
このあたりまでが、常日頃、頭の中をエンドレスでぐるぐるもやもや回ることです。もちろん、人生に必ずこうなるなんてことはないんだから、今こんなに悩んだって仕方ない。考えても仕方ない「もし」ばかりで時間の無駄とは思うんですけどね…。そして、出産って、産みたくても産めない人、産めるけど産まない人、いろいろな事情を抱えた人がいるので、産める体があるだけでも恵まれているって言わてしまうかな。本当にデリケートな問題だと思うので、書くべきかも悩んだのですが、自分と同じような考えの人っていないのかな…と思って書くだけ書いてみました。もし、発達障害が分かっていたけど、出産を決めたという方いらしたら、考えを伺いたいです。